エイプリルフールの祝日から一週間

一週間前、四月一日。エイプリルフールは私にとって祝日。子供の頃は、どうやって人を担ごうかと、四月に入る前からわくわくしてたものだが、どうも最近は…。「気恥ずかしい」というか「二十歳を過ぎて何をやってるの」と言われないかとか。気にする事が増えたのは、大人になってしまったということなのかな。
それでも友人に電話したついでにホラを、もとい、友人をかつぐために電話をかける。数週間前からの伏線張り、3日前にミスリードを誘うブラフ、そして電話での迫真の演技。そこそこ渾身の我が虚言に、今年も(その友人とは毎年こんなことやってる)見事に騙されるがいいッ。
「あのさ、実は今度、結婚することになったんだ」  「嘘だぁ〜」
その間、3秒。四月バカのネタだとあっさり見破られ、あげく「人には持って産まれたキャラというものがあるんだよ」とか「二十歳を過ぎて…」などと言われるハメになる。おそらく計画段階において、どこか欠陥があったに違いない。


今日はその友人と久しぶりに会うことに。とある駅で待ち合せしてるときに、ふと思った。例えば「電車の中で化粧をするのは見苦しい」「ものを食べながら歩くのは恥ずかしい」。そう感じるのに理由は要らないとは思うのだが、実際になぜそう感じてしまうのか、自分でもよくわからない。この感覚は、きっと自分の外側から来たものだ。もしくは、そう感じるよう「作られた(刷り込まれた)」部分が、自分の中にあるということ。
おそらく子供の頃の自分は、そういった感覚を持ちあわせていなかった。別の言い方をすれば、その感じ方から自由だった。そして「社会的規範(マナー,道徳,倫理)」が求められる中、自分なりに「なぜ?」と問い直し、咀嚼しながら「外側の価値観」を取り込んでゆく過程があったような気がする。
しかし今。ひとつずつ積み上げてきたはずの自分は、自身の感覚のルーツをどうしても思い出せない。「感じ方」だけでなく「考え方」においても、外側の価値観をそのまま丸ごと同化しているところはないか。改めて考えてみれば、学問的知識として取り入れてゆく「ものの考え方」は、「アプローチのツール」以上の、己の血肉と呼べるものになるだろうか…。そうでないなら「(社会や教育によって)飼い慣らされた」といえるだけかもしれない。

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子供のときはどのようなものの感じ方をしていただろう、と偶に思うことがある。今日は逆のことを考えた。子供の頃の自分は、今の自分の感じ方をどう思うだろうか。それを考えるには、子供と大人、言葉の境界があやふやだ。まず定義をする必要がある。などと取り留めなく考えているところへ友人が来た。

友人とお昼。これは四月バカじゃないよと断った上で友人は言った。就職のため、近く故郷の方へ戻るとのこと。ああ、そうだ。自分自身を食べさせていけるかどうか、これが大人と子供の大きな違いのひとつだよな、…じゃなくて。寂しくなるな。春なのに。いや、春だからか。