「"その人が、ある状況下でどう動く(べき)か" "その状況が、ある人をどう動かすか"、そういったものに興味があります。最近は 関心の中心が 前者から後者へ…」

――三年ほど前に、こんな文章を書いてた覚えがある。その興味は今でも継続しているが、やはり微妙に移ろってきた。
「人の意思が交錯するところに生まれる"場",カタチ(システム)は、それ自体が"意思"と言っても差し支えないほどの方向性を持つのではないか」と考えはじめている。ハリ=セルダンの世界までゆかずともよい。世界のどこかで ある"流れ"が決定づけられるとき、そこで見るべき要素は、個々の主体より それらの総体、"カタチ"だ。「システムの持つ意思」などと書くと、この確信は信仰の領域にも入りそうだが、下手な「神さま」より、実際自分はそちらの方へ神秘性を覚える。
私は多分、そういったことを研究して過ごしたかったのだと思う。象牙の斜塔で得たツールや アプローチの手法には満足している。だけど、どこかで道を違えた気はする。